2015年12月21日月曜日

北九州 秘密基地で体感した”資本主義の次”の世界=Sharing Society

 最近、「資本主義が終わる」というテーマの本や話をよく聞きます。学者が書いているものも多いので、「へぇ、そんなこともあるのかなぁ」ぐらいでとらえている方も多いでしょうし、「そんなもの起きるわけがない」なんて思っている方もいるのかなと思います。ただ、私はすでに”資本主義の次”である”Sharing Society”を体感しています。簡単に言えば、お金が絶対的な力を持たない世界。そんな私が体感したストーリーを紹介したいと思います。






  コワーキングスペース秘密基地から生まれた「まちはチームだ」という発想

 まず私が体験したことをそのまま簡単に。私は2014年1月から北九州市のコワーキングスペース秘密基地に関わっています。最初はただのお客でした。ですが、この空間、ここに集まる人のユニークさに惹かれ、いつのまにか入り浸るようになりました。するといろんなことが置きました。まず、横浜出身で社会人期間中を東京で過ごした、北九州に縁もゆかりもなかった私に、たくさんの北九州の”地元の友達”ができました。1年もたつ、北九州・小倉の街中を歩いていれば知り合いに必ず会う、というほどになりました。もちろん、こんなのは序の口。

 次に起きたことは、お金がかかるはずのチャレンジが簡単に実行に移せていきました。例えば1万人規模のフードフェスティバル。まともにやったら数千万円はかかってしまいます。けれども、ほとんど地域の仲間の力で形にできてしまいました。ちなみにぼくはサポートする形でかかわっていて、これを実現したのは秘密基地から立ち上がった実行委員会の皆さんの力です。ほかにも独自のクラウドファンディングが立ち上がったり、人材育成プログラムが走り始めたり、なにより約2年間で10社を超える会社がこの秘密基地から起業し、そして現在も活動を継続しています。

 気が付けば、これは国や自治体がやりたがっていた地域のインキュベーション拠点やにぎわい拠点としての役目を果たしていました。毎週のように企業や行政の方が秘密基地に視察に訪れ、私自身も取材に対応したり、講演したりと仕事の幅を広げていくことになりました。

 そんな折に「なぜこんなことが可能になったのか」という質問をよく受けるようになりました。私たちは楽しいから、面白いからやっている、というところが大きな要因だと最初は思っていました。ですが、なぜ楽しくできるのか、面白くできるのか、が大事だろうとさらに掘り下げていきました。すると、私たちはすでにただの知り合いではなく、仲間と呼べる関係性になっていたことに気付きました。さらにその仲間の共通項は、まちというものしかない。ただ、まちのことが好きで、将来もこのまちを愛していたい、続いていってほしい、という思いだけが共通していました。そして出てきた言葉が「まちはチームだ」でした。まちを通じて人がつながり、チームとなって可能性を形にできる。その過程は最高に楽しむことができ、面白くすることができる。それをただやってただけなんだと気づきました。

 「まちはチームだ」の発想の中では、お金はただの道具にすぎません。地位を測るものでも、権力を表すものでもなく、ただ価値交換をするために一時的に価値を留保しておくための道具でしかありませんでした。別になくても困らないのです。それぞれが相互につながり、それぞれの持っている価値をお互いに納得して共有し、交換していました。さらにユニークだったのは、お互いの持っている価値を提供して、新しい価値を創出し、それを共有するということが日常的に起きていました。フードフェスティバルにしても、クラウドファンディングにしても、人材育成にしても、それぞれの専門知識、人脈、技能などを提供しあい、場を作り、より大きな価値に昇華させていたのです。最終的にそれらは事業という形になり、ビジネスとしてのスタートを切ることになりました。





  秘密基地の活動を通じて見えた、従来型の”奪い所有する成功者の社会”の限界

 秘密基地の活動を改めてレビューすると、従来の社会モデルとは異なったアクションをしていたのではないか、と感じます。このあたりは大学などの研究者の方に一度ご意見を頂戴したいところですが、今回は私の体感したところからの考察をご紹介します。まず、秘密基地の活動を通じて見えた従来の社会モデル構造についてです。

 従来の社会モデルの基本構造は、資本主義です。資本主義は端的に言えば、いかに多くを”奪い”、自分のものとして”所有”し、”成功者”になるかが大事な社会モデルだと考えています。”奪う”という表現はいささか辛辣ですが、冷静に見れば私たちはよくこの言葉を使っています。たとえば商品を売り出すとき。よく言葉として出るのが「他社のシェアを”奪う”」と表現しているのではないでしょうか?そのために戦略を練って、戦術を固めます。実際、企業の経営戦略には、軍事戦略のアプローチがたくさん使用されています。そういった意味では、戦争的な発想が盛り込まれたのが資本主義なのかもしれません。そして成功者、勝者が絶対的な力を持ちます。これで秩序が保たれるのであれば、それはそれでOKなのかもしれません。しかし、現実には限られたリソースを奪い合い、結果わずか1%のひとびとが世界の半分の富を手にし、貧困などの社会問題を引き起こしているのが現状です。

 もう少しかみ砕いた例を出しましょう。ひとつの大きなケーキがあったとします。これを一人で食べればおなか一杯になります。むしろ食べきれないかもしれません。ですが、食べたいと思う人が10人になったら、100人になったらどうでしょうか?一人当たりが食べられる量は減っていきます。そんな中でも誰かがおなか一杯になりたいと考えたらどうなるでしょうか?ひとの取り分を奪い取ります。そして奪い取っておなか一杯になった後、余ったものはどうするでしょうか?どうしても食べたいひとに売りつけることができます。でも食べたい人はお金がないと食べれませんし、人によってはまったく食べれない人も出てきます。こんなことが起きているのが資本主義です。

 これをまちのレベルに変えてみましょう。ケーキは行政の助成金や企業などの予算、特別な影響力を持った人たちの時間や才能、温泉や景観スポットなどの地域の資源などにあたります。そしてまちにかかわる人、それぞれが自分の利己的な主張を実現するために予算やひとや資源に群がります。そしてあっという間に枯渇させてしまいます。行政が緊急支援策としてお金をばらまいても、一瞬で乾ききるのは目に見えています。もらう側は「もっとほしい」と要求を繰り返し、与えるがあは抑制するためのルールをあれこれいじり、より複雑な状況を作り上げていきます。この”まち”を”社会”や”グローバル”といった言葉に変えても実情は何も変わりません。

 果たして、このような資本主義的なアプローチから、新しい可能性は創出することができるのでしょうか。さらに言えば、社会活動を継続することは可能なのでしょうか。少なくとも私は明るい気持ちで見ることはできませんし、未来にエネルギーを感じることもできません

 ただひとついえることは、秘密基地で体感したストーリーにはこれら資本主義的なアプローチは存在しませんでした。秘密基地の仲間たちは、知らず知らずのうちに、資本主義の外側でのアクションを始めていたようです。だからこそ、従来の資本主義の形を外から見ることができ、資本主義の構造を感覚的に理解することができたのだと感じています。





  秘密基地が実践する、”貢献して共有する幸福な社会”の可能性

 では、秘密基地ではどのようなモデルが動き始めているのでしょうか。ある意味資本主義と真逆の発想なのかもしれません。”奪う”のではなく、”貢献する”。自分の持っている強み、潤沢な資源を社会に提供するという発想からスタートします。そしてそれぞれの貢献をつなぎ合わせ、新しい価値を創り上げて”共有する”。ひとつひとつの貢献は小さく、単体ではそれ以上の価値はなかなか発揮できませんが、組み合わせれば相乗効果を発揮することができます。その結果を共有するという考え方です。そして誰かが独占するのではなく、みんなが”幸福”になる。みんなが”満足”する。これは物質的な充足ではなく、精神的な幸福感を意味します。昔の言葉を借りれば、”足るを知る”というやつです。これが北九州で感じた”Sharing Society”です。

 ケーキの例を再び出しましょう。資本主義はケーキを奪い合いました。この秘密基地のモデルではケーキは奪い合いません。むしろつくります。ひとりは農場で小麦をつくり、ひとりは小麦から粉をつくり、ひとりは乳牛を育て、ひとりは生クリームをつくり、ひとりは工場でケーキ作りのための型をつくり、ひとりはオーブンをつくり、ひとりはオーブンのための燃料をつくり、ひとりはパティシエとしてケーキをつくり、ひとりは食べる場所を用意し、ひとりはお茶を入れ、そしてみんなでケーキを食べる。そしてケーキがみんなに行き届くようにつくり続ける、という発想です。だれかが独占することに意味はなく、食べられない人もいない。お金がなければ、何かで貢献すればそれでOK。みんなでケーキをつくって、みんなでケーキを食べる。ただそれだけのことです。これが秘密基地で実践し、現在も進化し続けているモデルです。

 これもまちのレベルに変えてみましょう。創るべきはまちの未来です。だれもがまちを愛し、まちでの暮らしを大切にし、幸福に、豊かに過ごせること。そのために組織や立場を超えて、それぞれの強みをつなぎ合わせる。使っていない土地があれば、その土地を提供する。建築の技術をもっているなら、そこに立てるべき建物を考える。マーケティングに強ければ、その場にひとを呼ぶ仕掛けをつくる。ITがつよければ、SNSなどを駆使した仕掛けを考えて実現する。食に強ければ、サービスに強ければ、それぞれの強みを活かして貢献する。そしてひとつのまちの未来の可能性をカタチにする。もちろん、霞を食べて生きられるわけではないので、事業として一緒に立ち上げていく。まちとして収益をあげ、それぞれの事業が成立する協調関係をつくりだしていく。まちの中にジョイントベンチャーを作っていくようなイメージ。結果として、まちの中での活動としてはほとんどゼロコストで運営することが可能になり(しかも幸福度高く!)、まちへの来訪者や異なるまちとの交流を事業としたモデルが成立していく、といった具合です。まちの来訪者たちとも適切な価値交換ができれば、お金の交換に固執する必要もありません。抽象的でイメージがつかみにくいかもしれませんが、ドラッカーが言うところの”顧客の創造”を実践する、といったところです。

 まちのひとたちの幸福度が高く、事業としても成立したモデルであり、新しい顧客を次々に創造することができるとしたら、それは持続可能な社会になるのではないでしょうか。夢みたいな話と受け取る方も多いかもしれませんが、これが秘密基地で実際に起きていることであり、今この瞬間も進化しているモデルなのです。




  まとめ:私は資本主義から”ひとの幸福”を軸とする新たなパラダイムへの橋渡し役をやります!

 私自身、これまで資本主義に囚われすぎていたと感じています。お金がなくては生きていけない、お金がすべて、お金持ちになりたい。そんなエゴはたくさんありました。まだぬぐい切れたわけではありません。手元にお金が無くなれば不安になります。しかし、もう私は体感してしまいました。お金やお金に換えられるもの=資本への囚われは、単なる”思い込み”でしかないことを、資本主義ではない新しい社会の在り方が実現可能であることを。

 とはいっても資本主義をいきなり切り捨てることはできません。現代を生きる私は、資本主義から新しいパラダイムへの橋渡しをすることが役割なのだと感じています。その新しいパラダイムとは、ひとの幸福という観点から社会を考え、価値を創出し続けるパラダイム。貢献し、共有し、幸福をつくるパラダイムです。そして次の世代が、ひとの幸福を軸とした新しいパラダイムで過ごせるように、自分の人生の時間を使っていきたいと考えています。


 もし”ひとの幸福を軸とした新しいパラダイム”を体験したくなったら、ぜひ秘密基地に遊びに来てください。私もご一緒したいなと思います。